宮城県宮城第一高等学校 同窓会

校章の制定

「六十年史 宮城県第一女子高等学校」より抜粋、編集

 丸に松皮菱の本校校章は、明治39年4月、校庭の古松と礼法の小笠原家の定紋を顧慮して制定したものであり、貞操、質朴、礼節、風雅、明晰、円満等を寓したものである。

 昭和10年3月、山下校長のもとに刊行された「歴代校長経営の跡」は、「校章の松皮菱は39年4月の制定に係わり、校庭の古松と小笠原家の定紋とを顧慮して制定したるものの如く、貞操、質朴、礼節、風雅、円満等の婦徳を寓したるものなり」と述べている。
 明治38年8月31日、大沢校長は県第二部長に宛てた「生徒取締状況」の報告に「将来ノ取締上、服制若クハ徽章等ノ制定或ハ必要アランモ、先ツ現行ノ方法ハ実施以来日浅キモ効果佳良ナルモノアルヲ以テ、尚ホ弛張ナク続行スル」と述べた。この文中「徽章の制定」はあくまでも「徽章」であって校章ではないが、校章に直接関係のある点で特に注目される。
 しかし「徽章ノ制定」はしばらく様子を見ようという態度から、このときには校章も存在しなかったと考える。
 一方「友の栞」に松皮菱の見られるのは、明治40年3月26日発行の第4号が最初で、その拍子に松島を寓する下絵の中央に大きく松皮菱と三蓋松を組み合わせたものである。以上のことから校章の制定が明治39年であったことは間違いないところであろう。
 制定の経過について「校庭の古松と小笠原家の定紋とを顧慮して」ということは昭和10年当時も既に伝承となっていたところで、これを確認するに足る資料は見当たらない。しかし元寺小路の公社は密乗院の跡である。この密乗院は仙台開府のころに送検され、廃寺となったのは明治初年のことであるが(仙台市史第7巻)戦災で本校が焼失するまで、本校の正門から玄関に至る前庭には、密乗院建立以前からと伝えられる古松の聳えた林があって、落着きを与えていた。古来常盤の松の緑は女性の貞操に比せられていたから、この松にちなんで、また小笠原流礼法の小笠原家の定紋が松皮菱であることを考えに入れて、松皮菱を校章にすることは十分理由のあることである。
 校章は「貞操、質朴、礼節、風雅、円満等の婦徳を寓したるもの」といわれ、あるいは斎藤校長の昭和10年頃からは「風雅」を「明晰」と置き換え、松皮菱の鋭さに頭脳の明晰を思い起こし、近代女性の英知と、本校の特色として自他ともに認める「知的水準の高さ」及び「気品」を結びつけたせつめいもなされている。また、その鋭さを内に蔵するが、外は丸の円満さで包んでいると解し「丸くとも一角あれや人心、丸きばかりは転び易きに」という道歌が、校章を説く人によく引用される。
 校章を佩用するようになったのは大正2年からであるが、色は銀白色、円の外径約2.2㎝のものである。内径は約1.8㎝、菱の上下と中央部は内円に接する。しかし校章は「丸に松皮菱」というだけで、色や大きさ、外径と内径との間隔、菱の角度などについては定められていない。 校章の色や大きさなどについて明文化されたものは現在も存在せず、大正2年以来の慣例によっている。